この様にドイツと日本があの時代に起こした戦争は、その目的や内容において大きな相違があるばかりでなく、戦後処理の仕方も大きく異なる。ドイツはドイツらしく、日本は日本らしい。ただ戦後70年を経過した今日、ドイツの過去を何かにつけ蒸し返すような国も国民もないが、日本の過去は未だに蒸し返し続けられている。
その理由の一つにヴァイツゼッカー演説の皮相な理解があることは否めない。だがその真の背景は、人種差別と宗教戦争、大航海時代以降の白人キリスト教勢力による南北アメリカ、アフリカ、アジアにおける植民地政策、欧州の産業革命とそれに引き続く帝国主義、及びその流れの中で、有色人種国家として唯一独立を保ち、明治維新を経て列強入りした日本への蔑みや怨嗟などがあるが、ここでは措く。
日本は今後も、敗戦の責任を天皇が国民と共に負い、国民も天皇と共にそれを負い続けることが必要だ。が、同時に先の戦争に至るまでの長い歴史的背景や東京裁判の不法性などは改めて検証されるべきである。また国際社会は、国際法に悖る戦争犯罪はその事実に向き合って反省しなければならない。
戦後70年を迎える日本にとって、このことにこそ、ヴァイツゼッカー演説の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」の一節が当て嵌まる、と私は思う。
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<産経抄>は、「演説の抜粋部分は、実際の安倍談話ではこう記されている。『あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』」と。安倍氏もヴァイツゼッカーに劣らず「実に巧みだ」と筆者は思う。
それは、安倍氏が『回顧録』で、「談話」の4ヵ月前に開かれたバンドン会議の演説では「侵略や武力行使によって他国の政治的独立を侵さない、という原則を、私たちが侵略したかどうかではなく、世界がそう決意している、という言い方で触れたのです」とする辺り、即ち、一人称の能動態を使わないところだ。