ヴァイツゼッカーとドイツ国民のこの割り切りは、精神医学者であり実存主義哲学者であるカール・ヤスパースの『戦争の罪を問う』(1946)に淵源を置く。ヤスパースは、ニュルンベルグ裁判は「刑事裁判」で、「特定の個人を罰するのであり、集団的に民族を弾劾する訳ではない」とし、戦争指導者たちと国民とを峻別した。
ヤスパースは戦争指導者たちの犯罪を4つ、即ち「刑法上の罪」、「政治上の罪」、「道徳上の罪」、「形而上的な罪」に区別し、その主眼を「罪」と「民族全体」との関係に置いた。例えば、刑事上の罪は個人が負うものであり「民族」が負うものではない、また道徳上の罪も個人が負うものであり「民族」が負うことはそもそも不合理である、とした。
ヤスパースの議論では、罪は「民族」が背負うものではなく、「集団を有罪と断言」することは不可能であり、ドイツ国民が背負うのはあくまでも敗戦国の国民としてであって、民族としての存在そのものが弾劾されることは、むしろナチスの民族大虐殺と同じ考え方に立つものであり、およそ受け入れられないとする。実に巧みだ。
靖国問題での中国の言い分も、この戦争指導者と国民を分ける考え方に近い。悪いのは日本の戦争指導者、即ちA級戦犯であり、日本国民はむしろその被害者で、国民に罪はない。だからA級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝することは、先の戦争の罪を否定し、戦争を肯定することだと。だがこの考え方に日本人、少なくとも私は立たない。何故か。
ニュルンベルク裁判では、被告人の多くがヒトラーに罪を擦り付けて被害者を装った。他方、東京裁判では、多くの被告人は自らの刑は二の次で、主たる関心事は国体の護持にあった。BC級裁判でも国を恨むことなく、部下の助命に奔走し、静かに刑に服した。天皇や東條などに罪を擦り付けた被告人もいない。またその主張は、戦争は国際法に基づいたものであり、もし罪があるとすればそれは負けたことにある、と至極真っ当だ。