第2に、仮説と証拠の重大な不一致があります。かれは第一次世界大戦が人々の戦争への意識を変えたエビデンスを提示しています。たとえば、「多くの人々にとって、それから本当の脅威と真の敵は戦争それ自体になった…1914年以降、仮想的な戦争を描いた文献は、古臭く、英雄的で、攻撃的な態度のものが、コンスタントに減少してきた」(同書、59ページ)ことが、その1つです。読み物は時代を映す鏡として一定の価値があるので、データとして使うことには、ある程度、納得できます。
問題は、その後、ファシストのムッソリーニやナチズムのヒトラーによる戦争が起こったことです。こうした理論的な矛盾について、ミューラー氏は、第二次世界大戦をこれら指導者の「特異な」個人的属性のせいだと片付けています。
ムッソリーニやヒトラーは、もしかしたら「歴史の例外」人物だったのかもしれません。とりわけ後者について、ミューラー氏は「ヒトラーは現象でも傀儡でもなかった。かれがナチズムを発明したのであり…第二次世界大戦を引き起こしたのだ」(同書、65ページ)と断言しています。
確かに、これら独裁者の好戦性とは対照的に、イタリアやドイツの人々は、はじめのうちは戦争に乗り気ではありませんでした。ですが、第一次大戦後、ヨーロッパで戦争は考えられない嫌悪すべきものとして衰退していたはずだったにもかかわらず、結局、イタリアとドイツは歴史の流れに逆行するような大戦争に突き進んでいきました。なぜそうなったのかナゾは残ります。そのナゾをミューラー氏は十分に説明できていません。
・消しさられた核革命第3に、ミューラー氏の有名な「核兵器は冷戦期の大戦争の不在と無関係である」という仮説への疑問です。この仮説について、かれは以下のように述べています。
(核兵器)なしでも、第二次世界大戦の記憶は鮮明で効果的な(大戦争への)抑止力として成り立っていただろう…第二次大戦を繰り返すことへの恐怖は、心に焼き付く印象的なものとして、弱いものでは決してなく、現状維持に原則として満足する指導者は、いずれの災厄(大戦争もしくは核戦争、引用者)にもつながりかねないと感じる、いかなることも避けようと努めるだろう。15階の窓から飛び降りることは、5階の窓から飛び降りることを考えるより少し怖いものだが、最低限、生きることに満足する人なら、どちらの行為もまず確実にしない。