そんな教養もない無学か、わかった上で隠す詐欺師が持て囃してきたのが、「うおおお面倒くさいから全部AI!」みたいな話だ。バラバラにAIとお話しすれば対面は要らないでしょ、というわけだが、AIはもちろん明示的に可視化されたデータしか読めないので、もっと症状はひどくなる。
2020年の5月に出した斎藤環さんとの対談集でも、ぼくはそのことをはっきり言っている。まさにコロナ最初期の大混乱のさなかでも、「対面」の不可欠性を説いてきたから、オンラインのルッキズムには騙されない。
人間が社会を維持するには、ニュアンスという媒体を噛ませないとダメなんです。……「慰安婦の前に “従軍” をつけますか?」「“侵略” や “謝罪” の語は入ってますか?」のように、AIでもチェックできるやり方で内容を判定していたら、どんな文面を書いても「その言い方は認められん」という壁にぶち当たる。
そうではなく談話を発表する総理大臣の表情や所作といった身体性の次元も含めて、ニュアンスの形で「追悼と反省の念を伝える」ことで、なんとか互いにコミュニケーションできている。
『心を病んだらいけないの?』182頁
ホンモノは、視覚だけを過敏にする不健康な「対面なし」に反対する。ニセモノは、視覚しか使えない状況の方が自分が商売しやすいとして、いつまでも危機を引き延ばし、不安に駆られた顧客たちに貢がせる。
『Art Collectors’』への寄稿の最後は、こう結んだ。社会を分断してでも自分の承認がほしい、視覚過敏のモンスターたちに食い荒らされた数年間から回復するために、ぜひ多くの人が、手に取って考えてくれるなら嬉しい。
一緒にいることを相手が許容しており、悪いことは「なにも起きない」という安心感を、対面する人は触覚で感じとる。それが初めて、視覚だけで接した際に抱いた敵意や不安を、和らげる。 (中 略) 「認めてくれる居場所が、ここにあるから、もういいか」。そうした充足は、触覚を通じてしか得られない。現前する人いきれの匂いを嗅ぎ、脱線に満ちたノイズを聴き、それでも壊れない関係を味わったときに、ルッキズムという「視覚の専制」は終わるのである。
(ヘッダーは1970年代のアフガン。タリバン支配の再来を報じた2021年8月の中央日報より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年8月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。