『私たちは「見た目」とどう向き合うか ルッキズムを考える』

先日、新型コロナウイルス禍で3年間、中断していた地元のお祭りがありました。お子さんに色とりどりの浴衣を着せて、街を歩くご家族が多い。

「かわいい子に育ちましたね」と、お互いに声を掛けあって、承認しあう機会なわけですね。リアルな対面の関係では、「誰に承認してもらいたいか」という範囲が、触覚(=街での実際の出会い)によって自ずと限定されます。

ところが、SNSになると大変です。同じ場所で対面してはいない人と、触覚抜きで、「視覚のみ」で承認してもらわないといけない。……街を歩いて5人から「かわいいですね」と言われたら、大満足でしょう。しかしSNSでは「500いいね」くらいもらっても、まだ少ないとしか思えない。

初出は2023年9月のNewsPicks (段落を改変)

値段のインフレも大変だけど、その前からぼくたちは評判のインフレに悩まされてきた。広義の触覚(リアルな対面での感覚)がもたらす「いま十分楽しいし、いっか」な満足感が効かないと、無限に数値を上げないかぎり承認を得られない。

数値だけではない。文字列のルッキズムに支配されると、文脈的には自分に配慮してくれている文章まで、「私の気持ちに合っていない!」と怒り叫ぶ人が出てくる。散々暴れた後で誤読に気づき、「発達障害だから人の気持ちは知りません」と言い出す例もある。

これが個人どころか、国と国の問題になると大ごとだ。最初は「謝罪」って文字面は自虐、と言っていたのが、いつしか「反省」って文言も自虐! みたいになって、なにも言えなくなる。もはや国として終わりである。