それにも拘わらず、外交委員会で前述のような言葉が吐けたのは、「マッカーサーの2000日」と称される日本占領での数次にわたる昭和天皇との会談などを通じて、日本と日本人への認識が変化したと思しきことや、帰国後の大統領出馬への意欲を燃やしていたのに、朝鮮戦争の最中、不名誉にも自分を解任したトルーマンへの憎悪の念があったからではなかったか。
そこへいくとミアーズの日本観は極めて公平・冷静かつ学問的だ。彼女は1900年ニューヨークに生まれた。この年は北清事変(義和団事件)があった年で、義和団に加勢して敗れた清は、北京議定書によって8連合国の駐屯軍受け入れを余儀なくされた。北京と天津に兵を置いた日本は、事変における柴五郎の活躍と厳格な軍紀や兵の勇敢さを世界に知らしめ、それが日英同盟(1902年)の呼び水ともなった。
ミアーズの日本への興味は、1925年に北京に1年滞在した際に日本を訪れたことがきっかけだった。帰国後ジャーナリストとなり、結婚と離婚を経て35年に再び訪れた日本で、彼女は翌年に226事件が起きる日本社会を1年間、庶民の生活習慣から神道に至るまで体験した。帰国後、雑誌『フォーチュン』の「日本特集」編集委員になったミアーズは42年、日本での体験を書いた『Year of the wild boar(亥年)』を出版、日本専門家として全米の注目を集めた。
『亥年』が出版された42年に『ニューヨークタイムズ』(NYT)が掲載した書評がある。そこには「亥年」はミアーズが日本を訪れた1935年を意味するとある。戦後の1946年3月、GHQ労働局諮問委員会の一員として3度目の来日をし、労働組合法や労働法の策定に参画した後の48年に書かれたミアーズ本は95年に邦訳出版され、単行本の旧版・新版や文庫本・抄訳本・kindle版などで読める。よって本稿では、開戦直後に書かれた『亥年』の書評の紹介を含めて、ミアーズに親しんでみたい。