マッカーサーも日本から解任されて帰った翌月ですよ。あれ昭和だから20何年か? 1950年の上院公聴会で、日本はその已むに已まれぬ形であの戦争に行ったんだと、これは自衛のための戦いだったということを証言していますから。そうするとミアーズの書いていることと同じなんだよね。当時のアメリカの1番の研究者も、GHQの最高司令官も同じことを書いているんですよ。
マッカーサーは1951年5月3日、米上院の軍事外交合同委員会で行った230語ほどの証言で、綿花も羊毛も石油も錫もゴムもない日本を米国は包囲したが、それらの全てがアジア地域にはあった。これらの供給を絶たれたら、10百万から12百万人の失業者が出ると彼らは恐れていたとし、最後を「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(従って、彼らが戦争に踏み切った目的は、安全保障によるところが大きかった)」と結んだ。
門田本は未読だが、彼がミアーズの『アメリカの鏡:日本』(以下、ミアーズ本)の記述を述べているなら、確かにこの結語はミアーズの主張と似ている。但し、そこに至る二人の道程はだいぶ違う。
マッカーサーには開戦4ヵ月も経たない42年3月20日、「I shall return」のセリフと部下76000をフィリピンに残してオーストラリアに逃げた屈辱があった。捕虜となった敗残兵には「バターン死の行軍」(これも米国の言掛りだが、ここでは措く)といわれる事件が待っていた。
ミアーズ本にもマッカーサーが46年9月に述べた、「日本民族は太平洋地域の他の民族・・と異なり、何世紀にもわたって戦争技術と武士階級の忠実な信奉者で・・、武力をふるうべく生まれついた民族であった」との談話の一部が書かれている。この章でミアーズは、「日本人を侵略的民族と決めつける私たちの理由が余りに曖昧だから、はたと行き詰ってしまうのだ」(第四章「伝統的侵略性」)と記している。