ホワイトハウスの副報道官だったイーブン・エアーズは『ホワイトハウス日記 1945-1950』の8月11日の日記にこう記している。
大統領との朝の会議を行った。米英ソ仏の四か国が協議中であるということ以外いうべきことはない、と大統領は言った。(主任報道官の)ロスは10時30分の記者会見でこれを記者団に伝えた。そのすぐあと国務省は我々に一言の断りもなく、日本提案に対する米国の回答を発表した。その返事は、日本は天皇制を維持できるが、天皇も日本国民も連合軍最高司令官に従う、という内容だった。
つまり、原爆を投下したからには、日本にはソ連の参戦前に速やかに降伏させねばならない。そこでトルーマンはバーンズと図って宣言から一旦は削った「国体の護持」を容認する内容、つまりグルーの原案に戻したのだった。但し、それと判り難いような表現に替えて。即ち、次のような言い回しである。
十二 前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。
が、スターリンはルーズベルトの置き土産を忠実に守り、ドイツ降伏からきっちり3ヵ月目の8月8日の日付が変る頃、赤軍を満洲と北朝鮮に殺到させた。日本が宣言を受諾した8月14日を挟み、11日には樺太、24日には千島に侵攻し、9月2日の降伏文書調印後の5日までに占領を完了すると共に、満洲と北朝鮮に日本が残した膨大な資産の大半を、60万人の抑留者と共にシベリアへ持ち去った。ここに東西冷戦が表面化したのであった。