「皇室の存続」を保証するグルーの宣言第12条案と最終文言は次のようである(太字は筆者)。

グルー案:「連合国の占領軍は、これらの目的(*侵略的軍国主義の根絶を指す)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする。」

最終文言:「前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。」

グルーはこの通告を45年5月31日に大統領声明として出すことを、5月29日の三人委員会(メンバーはスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代理)に諮った。契機になったのは、長官代理になった後にスティムソンから原爆開発計画を知らされたことだった。

が、トルーマンの同意にも拘らず、委員会の結論はスティムソンが主張した「先送り」だった。スティムソンの部下だったジョン・マクロイはその理由を、「原爆を使う準備のことも考えなければならなかったから」と証言している。つまり、日本降伏は原爆投下の後であることが、当時の米国の方針だったのだ。トルーマンは回想録を潤色したのだろう。

ジェームズ・バーンズ登場

44年にコーデル・ハルが健康問題で国務長官を辞した時、ルーズベルトは次官のステティニアスを長官に昇格させ、次官にグルーを充てた。が、トルーマンが7月3日に国連大使に転出させたステティニアス国務長官の後任に選んだのは、次官兼代理のグルーではなく、負い目のあったジェームズ・バーンズだった。

バーンズは44年7月の民主党大会で現職のヘンリー・ウォーレスと副大統領候補指名を争った有力議員であり、トルーマンが、結局は自分が就任したルーズベルト政権の副大統領にバーンズを推薦していた経緯がある。またトルーマンとバーンズには共通点が二つあった。一つは共に日本に対する知識が乏しかったことであり、他は共に大卒でない叩き上げの上院議員だったことだ。