当時の米国の「大統領継承法」も、トルーマンがステティニアスを更迭し、グルーでなくバーンズを国務長官に据えた理由の一つだったに違いない。大統領が欠けて副大統領が昇任した場合、その在任期間は副大統領を置かず、国務長官に大統領継承順位が繰り下がる決まりだったから、万一自分が欠けた時、ステティニアスやグルーが大統領に昇任することを避けたのだ。
筆者はトルーマンが原爆の存在を知ったことも、バーンズを国務長官に据えた大きな理由の一つだったと考える。副大統領だった82日間、ルーズベルトから原爆はおろか政務全般についても何も知らされなかったトルーマンは、ルーズベルトの急死で「偶然」大統領になり、スティムソンから原爆開発を知らされた。
原爆完成が近いと知ったトルーマンは、それを使うことこそ前大統領に縛られず自ら下せる決断だ、と考えたろう。と同時に、20億ドルの巨費が正式な議会承認を経ず原爆開発に費やされていることも知り、原爆投下で日本を降伏させて、これを正当化しようとも思ったはずだ。そしてバーンズこそ、マンハッタン計画の責任者の一人として原爆開発の経緯を知悉する人物だった。
バーンズは、ヤルタから戻って直ぐに戦時動員局長官を辞していた。ヤルタの詳細を知りたいトルーマンは、ヤルタに同行したバーンズから会議の様子を聞こうとした。が、ルーズベルト側近のハリー・ホプキンスやアルジャー・ヒスほどには重要会議に出ていないバーンズはヤルタの詳細を知らなかった。
当時の政権内でバーンズ国務長官は最も対日強硬派(ハードピース派)だった。他のスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、最長老のリーヒ統合参謀本部議長、マーシャル陸軍参謀長などは概ね対日穏健派(ソフトピース派)だったが、政権の外に対日強硬派が一人いた。日米開戦の引き金を引いたハルノートで知られる元国務長官コーデル・ハルである。
7月3日に国務長官に就任し、4日後にはポツダムに出発したバーンズの鞄には、スティムソンらの合意を得て第12条に「国体の護持」を謳ったグルー草案が入っていた。が、バーンズはオーガスタ号の中でトルーマンを説得し、前述した最終文案の通り草案から「国体の護持」を削ったのである。