「戦略には多くの次元があり、それぞれの次元の機能には大小がある。言うなれば、戦略というのはレーシングカーのようなものであり、なかでもエンジンやブレーキ、タイヤ、そしてドライバーがいるのだ。戦略パフォーマンスというのは、他のレーサーたちの意志と能力によって決定されるものであり、戦略の…次元のいずれかで失敗したり不運が起こったりすると、全体的なパフォーマンスが落ちてしまう…二つの世界大戦におけるドイツ軍…は戦闘こそ非常にうまかったが、戦争の遂行という能力は劇的に低かったのだ…『偉大な司令官』がいても、戦場で戦ってくれる兵士がいなければ意味はないし、テクノロジー面で優秀な兵器も、これを使う兵士にとっては戦術レベルにおいて効果があるだけだ」

(前掲書、54-55ページ)

ただし、こうしたアナロジーによる戦略の理解は、その実践において弱点を露呈します。グレイ氏は「戦争は政策のために行われるものであるが、(クラウゼヴィッツの)『戦争論』は政策について書かれているわけではない」と指摘しています(前掲書、164ページ)。そして、かれは『戦争論』に欠けている部分を『現代の戦略』において、継承してしまったようです。

(5)クラウゼヴィッツの神格化?

グレイ氏に師事した訳者の奥山氏は「訳者あとがき」で、本書をこう位置づけています。

「気になるところは…クラウゼヴィッツをやや神格化しているように見られやすい点だ…この本もクラウゼヴィッツの『戦争論』と同じように、あくまでも教育書や哲学書という性格が強く、結果としてクラウゼヴィッツの『注釈書』であると同時に、そのエッセンスを先鋭化させた『現代版』という性格が強い」

(前掲書、530ページ)

グレイ氏自身も、このことは自覚しているようで、ケン・ブース氏(アベリストウィス大学)の次の批判を受け入れています。

「彼はクラウゼヴィッツの主張と格言が、(グレイ氏の研究において)理性的な議論や判断の代わりにマントラ(真言)として使われることが多いことを指摘している点で正しい」