「概念が明示的に分析されると、何に反応し、どの要素を無視しているか、を比較的たやすく確認できる」(マートン、1957=1961:84)。

なるほど、灯油の容器といっても、満タンとカラとでは使いみちが違う。人間の体内から出た瞬間にその排泄物は汚く感じるが、それらはもともと体内で作られている。経験的内容と状況とで、同じものが異なる評価を受けやすいことが理解できた。

「小状況と大状況」の往復運動

同時にミルズの「社会学的想像力」では、常に一方では個人環境における私的問題に関わりつつも、他方では社会構造にかんする公的問題に視線が向けられる。これを「小状況と大状況」と言い換えてもよいが、この両者間をつねに往復する姿勢がこそが社会学的想像力の核心になることを納得した。

身近な小さな現実と遠い大きな現実

身近な現実を全体の社会的現実とのつながりの中で理解することは、一つの見地から別の見地に移動する能力を必然的に要求する。

しかし、「重箱の隅を楊枝でほじくる」ような細かさでは、「公的関連をもつ諸問題には関係のない些末な事柄に関心を向け」(ミルズ、前掲書:25)てしまい、「社会学者は『調査研究』にせきたてられ、真に価値ある遺産への手掛かりを喪失する」(同上:31)危険性を帯びてしまう。

些末性への陥穽に気を付ける

この些末性への陥穽には、理論の検証に志す場合に特に気をつけておきたい。俗にいう「瑣末実証主義」では広がりに欠け、先行研究を受けての理論化が捗らない憾みが残る。私もこれを避けるために、限られてはいたが、パーソンズとデュルケムそれにマンハイムの著書を出来るだけ精読してきた。

方法論者よ!仕事につけ!

瑣末実証主義を乗り超えるためにも、「理論なき経験的資料は盲目であり、資料なき理論は空論である」(同上:86)も十分に心得ておきたい。

理論を支える資料を獲得する方法でも、資料から理論を創造する過程でも、「あらゆる者は自己の方法論者となり、あらゆる者は自己自身の理論家となれ」(同上:292)である。