2つ目は、1997年11月に起きた帝京大学ラグビー部の事例だ。明治大学とは対照的に、組織が犯した罪の重さとそれに対する処分の軽さが著しく乖離している。部員による女性への集団性的暴行が明るみになり、スポーツの不祥事という範疇をはるかに超えた、悪質な刑事事件が起きた。本来であれば、廃部や無期限の活動停止といった厳しい処分が妥当であったはずだ。
しかし、現実は1年間の公式戦辞退のみ。これが組織や選手にどのようなメッセージを与えたかは想像に難くない。「これほど重大な事件を起こしても、この程度の処分で済む」「結果さえ出せば、過去は問われない」。そうした誤った成功体験が、その後の常勝神話の礎になったという見方は、決して穿ちすぎではないだろう。
その後、帝京大学ラグビー部は、責任を取ることなく監督に居座り続けた岩出雅之監督の下、全国大学ラグビー選手権で2009年度から2017年度まで9連覇という前人未到の記録を成し遂げ、現在に至るまで大学ラグビー界の絶対王者の座を守り続けている。その代償からか、大学ラグビーは年々その人気を落とし、大学選手権決勝でも国立競技場には空席が目立つようになっている。

勝利至上主義が蝕む学生スポーツ
これらの事例に共通して浮かび上がるのは、勝利至上主義と、それを前提とした思考停止が構造化されている点だ。現実として、元プロ野球選手や元Jリーガーがテレビで「俺たちの時代はもっと酷かった」「これを乗り越えてこそ一人前」などと発言する機会は散見されるし、視聴者もそこに“男気”やユーモアを見出す文化があるのは否めない。
とりわけ、プロ野球界OBの中でも“知性派”として知られる古田敦也氏ですら、新人時代に毎日のように叱責され、「2時間正座」や「罵倒」といった指導を振り返りつつ、そこで鍛えられたからこそプロとして生き残れたと語っている。また、スポーツにおける指導法の変化について相談を言及しつつも、「ある程度の厳しさは成長のために必要」と指摘するなど、時代背景への折り合いを示す発言もある。