原子爆弾投下に関与した政治エリートたちは、戦前の「孤立主義」の復活を助長するような反発を恐れていました。そして、世論の嫌悪感がこの戦争犯罪によって高まり、国際主義的な構想への熱意が損なわれることを避けるため、急いで弁明が公表されました。

しかし、その心配は無用でした。アメリカ国民の態度には、大きな変化が起きていたのです。それ以来ずっと、あらゆる世論調査は、大多数のアメリカ人がトルーマンを支持していることを示してきました。

つまり、「原爆は戦争を終わらせ、数十万の米国人の命を救うために必要だった」と信じているか、あるいはもっと単純に、この問題について特に気にしていないということです。

もし今なお、罪のない日本人の命と連合軍兵士の命を天秤にかけるような陰惨な費用便益分析に悩まされる人がいるなら、カトリックの哲学者G.E.M. アンスコムの判断に思いを巡らすべきです。 アンスコムは道徳的規則の優越性を主張しました。

1956年6月、トルーマンがオックスフォード大学から名誉学位を授与された際、アンスコムは抗議しました。

彼女は「トルーマンは戦争犯罪人だ」と主張したのです。アメリカ政府がヒロシマとナガサキで民間人を空から大量虐殺した行為と、ナチスがチェコやポーランドの村の人々を抹殺した行為に何の違いがあるのか、とアンスコムは訴えました。

アンスコムの主張は、さらに考察する価値があります。

仮に、1945年初頭にドイツを侵攻した際、アメリカの指導者が、「アーヘンやトリール、またはラインラントの都市の住民全員を処刑すれば、ドイツ人の意志が折れ、降伏に至る」と信じていたとしましょう。この場合、戦争は迅速に終結し、多くの連合軍兵士の命が救われたかもしれません。では、その場合、女性や子どもを含む何万人のドイツ人市民を射殺することは正当化されるのでしょうか?

それは原子爆弾投下と何が違うのでしょうか?