いや、別に誰かを「推し」てもいい。人間は複雑で、かつ年を重ねることで変化するから、互いの成長や老熟につきあえば、必ずどこかで見方が変わる。それを受け入れられるかが鍵だ。

加藤典洋にせよ、山形から上京し東大の仏文科に進んだ際には、太宰治をむしろバカにしていた。田舎臭く湿っぽい上に、学生運動で意気軒高だった加藤には、端から人生を投げている「負け組」めいて見えたのだろう。

いまから考えれば滑稽だが、大学への反抗心があり、……最後まで〔卒論の〕指導の教師をなしで通した。結局一度も誰にも見てもらうことなく書き終え、それを提出し、面接審査を受け、何とか卒業だけはしたが、語学力不足のために大学院の試験は落ちた。

大学を出る頃は、会う人ごとに、こういう学生にはいてほしくない、と思われる、いかにも薄汚れた、みすぼらしい、元暴力学生になり果てていたのである。

卒業に先立つ二年ほどは、もう書物の類はほとんど読めず、ほぼ唯一、手元におかれたのは、中原中也の日記、そしてエッセイと断章だけだった。わたしは高校生の頃、誰もが口にする二人の文学者を毛嫌いしていた。太宰治、中原中也がその二人で、その二人が結局現在の自分にとって大切な文学者となった、

10-11頁 (拙著では、274-5頁で参照)

国や社会の歴史を感じとりにくいなら、個人でもいいから、「時間の幅」を取ることが見え方を多様にする。それを経て、やっぱり自分にとって大事だなとして残るものが、その人の古典になる。つまり、ホンモノだ。