とはいえ、元歴史学者としては、そんな目新しい現象もまた過去にルーツを持つことの方に、どうしても気持ちが向かう。

初めて海外で、日本という〈国〉を無視して受容された作家は、太宰治である。「謎めいた魅惑の国JAPAN」を知るために訳されがちな谷崎や川端や三島と違って、太宰の小説は、世界の誰でも陥りうる Human Lost の探究として読まれた。

ドナルド・キーン 太宰治の本を読んで日本は美しい国だとか、日本の女性は歌麿の浮世絵に出ているような女性だとか、そういうような印象は全然受けないのです。……太宰治という「個人」、特別な作家が世界に対していろいろ感じたり、いろいろ悩んだり、そしてそういうような悩みに普遍性があってどの国の人でも共感できると、そういうことだったと思います。 (中 略) 奥野健男 つまり、カフカとかカミュとかなんかを読むのと同じような受け取り方をしたのではないでしょうか。

上記ムック、62頁 初出『國文學 解釈と教材の研究』1974年2月号

この意味で「Dazai」を継いだのは、1979年にデビューする村上春樹だろう。一見すると文体も翻訳ものっぽいし、日本という〈国〉を感じさせない。だから欧米でめっちゃ読まれて、ノーベル賞の候補になった。

……が、そう単純に行くものかなぁと、元歴史学者は思う。