つまり、生命は冗長な遺伝コードを「無駄」としてではなく、「安全装置」として利用してきた可能性があるのです。
そのため、冗長性を削減した細菌は成長速度がやや低下しましたが、それでもこの実験は生命が遺伝コードの単純化に十分耐えられることを証明しました。
さらに今回の研究の重要なポイントは、遺伝暗号を圧縮することが「ウイルスに感染されにくい細菌」を作り出す新たな道を開いたことです。
細菌に感染するウイルスは通常、細菌が持つ遺伝暗号を使って自分自身を複製します。
今回のように、細菌側でウイルスが使うコドンをあらかじめ削除しておくと、ウイルスは正常にタンパク質を作れなくなり、理論的には細胞内で増殖できません。
つまりコドンの削減は細菌にとって「遺伝的ファイアウォール」のような働きをするのです。
もちろん、まだ完全なウイルス耐性を実証したわけではありません。
過去の研究でコドンを減らした細菌でも、ウイルスが別の方法で細菌に感染した例が報告されています。
しかし研究チームは、将来的にさらに高度な技術を組み合わせることで、ほぼ完璧なウイルス耐性細菌を作り出せる可能性があると考えています。
例えば、今回空いたコドンのスペースに「自然界にない新たなアミノ酸」を人工的に割り当てれば、ウイルスが簡単には対応できない、より強固な耐性が得られる可能性があります。
実際、別の研究グループは削減されたコドンをあえて別のアミノ酸に置き換えて、ウイルスがタンパク質を正しく作れないようにする新しい方法も報告しています。
こうした複数の戦略を組み合わせれば、「極めてウイルスに感染されにくい細菌」が実用化される日が近づいています。
【コラム】ウイルス感染に完全耐性を持つ細菌は爆発的に増加したりしないのか?
今回の研究で作られた人工細菌「Syn57」は、遺伝暗号を大幅に削減することで、理論上、ほぼすべてのウイルスに対する強力な耐性を持つことが期待されています。しかし、このように「ウイルスに感染されない細菌」を作り出すことには、倫理的・生態学的な懸念やリスクも議論されています。まず懸念されるのが、ウイルスに感染されない細菌が環境中で「爆発的に増殖してしまうのではないか?」という点です。細菌とそれを攻撃するウイルスは、生態系の中で自然にバランスを取りながら共存しています。ウイルスが細菌の個体数を一定程度抑制することで、ある種の細菌が過剰に増殖するのを防ぎ、生態系の多様性を保つ役割を果たしています。ところが、もし完全にウイルス耐性を持つ細菌が自然界に放出された場合、その細菌を抑制するメカニズムが一つ失われることになり、細菌が異常に繁殖して生態系のバランスが崩れる可能性があります。実際、今回の研究を行った英国MRC分子生物学研究所(MRC-LMB)をはじめ、世界各地の研究機関の科学者たちは、このリスクを真剣に受け止めています。プレスリリースなどで研究チームは、「ウイルス耐性細菌が環境に与える影響を徹底的に調査・評価する必要がある」と明言しています。ただ今回の研究のような人工生物が現状すぐに環境中で爆発的に増殖する可能性は極めて低いと考えられています。先に述べたように実際に作り出された人工細菌は自然な大腸菌よりも増殖速度が遅く、環境中では生存競争に負けやすい可能性が高いと報告しています。つまり、人工的に変更された遺伝暗号を持つことは、細菌の生存にむしろ「負担」となり、環境中で爆発的に増殖するリスクは現時点ではそれほど高くないと考えられているのです。