ここに、深刻なねじれが生じる。山本太郎代表が率いる「れいわ新選組」は、現代の「エスタブリッシュメント」である自民党政権を徳川幕府になぞらえ、自らをそれに立ち向かう「幕末の志士」のように位置づけている。支持者の多くも、その比喩を抵抗なく受け入れているだろう。

しかし、保守的な視点を持つ人々から見れば、これは単なる比喩では済まされない。「天皇の敵であった組織の名前を、なぜ堂々と党名に掲げるのか」という、根本的な違和感と不信感に繋がるのだ。

彼らにとって、この党名は、歴史に対する無理解、あるいは意図的な無視と映る。「反エスタブリッシュメント」という姿勢には共感できても、「朝敵」の名を冠する党を支持することは、自らの信条に反する。

ここに、参政党が持つ「受け皿」としての強みが現れる。参政党は、その思想の核に「皇統の維持」「日本の国柄」「神話からの歴史教育」といった、徹底した「尊王」的な価値観を据えている。つまり、「既存政治にはうんざりだが、日本の伝統や皇室は深く敬愛している」という層にとって、れいわ新選組の党名が持つ「歴史的瑕疵」は、彼らを支持できない決定的な理由となる。

そして、その層が「反エスタブリッシュメント」の思いを託せる、もう一つの選択肢を探した時、思想的に「クリーン」で、むしろ自分たちの価値観を純粋培養したかのような参政党が、完璧な受け皿として、そこに存在しているのである。

第4章:支持層の歴史的文脈──創価学会との比較

参政党の支持層を理解するために、歴史的なアナロジーが有効である。それは、これまで私が論じてきた、高度経済成長期における創価学会の拡大モデルだ。

第一節:創価学会が吸収した「都市下層」

高度経済成長期、地方から都市へ大量の人口が流入した。彼らの多くは、生まれ育った共同体から切り離され、都市の企業や地域社会にも帰属意識を持てない「都市下層」とも呼べる存在だった。彼らは「貧・病・争」といった現世的な悩みを抱え、孤独の中にあった。