冷戦前後の米ソ(ロ)関係でいえば、アメリカの戦略は「ロシアを後方に置き去りにし続けながらも、自暴自棄になったり危険な存在になったりするまでは突き放さないこと」でした(『崩壊前後』88ページ)。
具体的には、アメリカの対ソ(ロ)政策は、1980年代中頃まではソ連と競争で優位に立つことであり、レーガン政権の後期では、軍備管理でソ連と協力することに移行して、ブッシュ政権の初期には競争に戻ったものの、1990年のドイツ統一と1991年のソ連崩壊をめぐる外交では再度協力に向かったのです。
アメリカは1980年中頃までは、INFや戦略兵器削減交渉において、自国に有利な非対称的削減を実現するために、ソ連に圧力をかけました。また、アメリカはソ連の経済成長を鈍化させるために、同国が西側諸国のテクノロジーを入手したり、借り入れを行ったりできないよう制限をかけました。要するに「ソ連が力尽きるのを助長した」ということです(『崩壊前後』86-87ページ)。
ただし、ソ連はまだ恐ろしい軍事力を持っていたので、1989年の東欧の革命に対して、アメリカの政策立案者たちは、その変革をゆっくりと漸進的なものにするよう模索しました。その後、ソ連が国境を超えて軍事力を投射しないことを受けて、アメリカはNATOを存続させたまま、ソ連が譲歩してドイツ統一を実現しました。また、ソ連の対外コミットメントの縮小から生じた力の真空を埋めるように、アメリカはNATOの東方拡大に乗り出すことになります。
アメリカはパワーシフトから得た優越的地位を利用して、自国の利益に沿うようなヨーロッパの安全保障秩序を構築したのです。このように冷戦終結前後のアメリカの行動は、パワー極大化の論理と一致しているということです(『崩壊前後』93ページ)。
冷戦終結をめぐる研究は、上記のように、3つの波を経て進展しました。こうした研究動向からいえそうなのは、第1に、国際政治におけるパワーをめぐる競争は、冷戦前後でも継続して行われているということです。リアリズムは冷戦の終焉を予測できなかったものの、その仮説のあいまいさは依然として弱点ですが、国家間の競争のパターンを説明する理論として強力なようです。