また、レーガンは対話による安心供与策も活用しました。たとえば、1986年にかれは「われわれはソ連に敵対的な意図を持っていない」と説いています。一方で、ゴルバチョフは「われわれがどこかで引き下がらなければ…結局、負けることになるだろう」とクレムリンの同志に語り、国連での大幅な通常戦力の削減の発表やアフガニスタンからの撤退などを縮小政策をとるに至りました(前掲書、131-132ページ)。

1980年代後半の米ソ関係は「アメリカの政策は繰り返し譲歩ばかりを引き出そうとする」と不平をいうゴルバチョフに対して、シュルツ国務長官が「わたしはあなたに同情してむせび泣いています」と返した逸話に象徴されています(前掲書、133ページ)。こうして冷戦は終結したのです。

ソ連自滅説の登場

冷戦終結の「勝利史観」や「レーガン勝利学派」に異議を申し立てる研究が、ウォランダー氏の論考です。この論文の目的は、ソ連崩壊の原因を明らかにすることですが、それは同時に、冷戦の終焉にも関連するものです。

ここで彼女が主張したいことは明確であり、「西側はいかなる直接的意味においても、ソ連崩壊を引き起こさなかった…もしわれわれがソ連衰退の単一の基底にある原因を重要度から優先順位をつけるのであれば、それは国内的経済システムの弱さと崩壊であった…西側はソ連崩壊の原因ではなかったが、ソ連の衰退には限られた特定の仕方で貢献した」というロジックです(前掲論文、137ページ)。

その最大の1つの根拠は、レーガン政権の軍事力の強化が、ソ連の経済を圧迫するはずの軍事費の増加をもたらしていないことです。

ソ連の軍事支出は、1980年代にアメリカが急激に軍事費を増額させたにもかかわらず、ほぼ同額か、ほんのわずかな増加に留まっています。このことは、彼女によれば、軍事的負担が1980年代のソ連の経済成長を妨げた根拠になりません。

ソ連の経済危機が、軍事費がほとんど変化していないにもかかわらず発生したのは、それ以外に原因があることを示しています。それはソ連の生産性の低さということです。それにもかかわらず、ソ連は軍事的負担を軽減するために、核戦力ならびに通常戦力を大幅に削減しました。その結果、ソ連の兵器購入は1988年から1991年にかけて約30%減り、軍事研究開発費も22%削減されました(前掲論文、160ページ)。