「強力な陸軍を満州に保持する戦略的決定は、東京の戦争指導者によって行われた最も悲劇的なものの1つである。太平洋方面における極めて重大な最初の1年間、約70万人の陸軍部隊は何もすることなく、そこに駐留していたのだ…1944年と1945年におけるアメリカの日本帝国に対する猛攻撃が明らかになった時になって、満州の部隊は急いで、統治下にある島々、フィリピン、本土に送られた。皮肉なことに、満州駐留の陸軍の質が最低レベルに落ち込んだ時に、ロシア軍がついに攻め込んできて、日本陸軍をずたずたにしてしまった」
Paul Kennedy, Strategy and Diplomacy: 1870-1945, Fontana Press, 1984, p. 191
第4に、軍事組織のイノベーションに対する抵抗があります。軍事コミュニティは、伝統的な役割と任務を脅かすイノベーションに抗おうとしがちです。イノベーションは軍事指導者の地位や権威を掘り崩し、特定の兵器や軍事ドクトリンへの感情的固執に挑戦するものなのです(前掲論文、149ページ)。
旧日本海軍がせっかく空母という画期的な兵器を開発できたにもかかわらず、「大艦巨砲主義」に最後まで囚われてしまったのは、その端的な例でしょう。太平洋戦争へ突入するにあたり、帝国海軍は「艦隊主兵」「艦隊決戦」の運用思想を保持しながらも、「航空主兵」の作戦へと移行しつつありました(立川京一「旧日本海軍における航空戦力の役割」『戦史研究年報』第7号、2004年3月、29ページ)。
しかしながら、航空戦力の重要性をいち早く見抜いていた井上成美大将でさえも、作戦レベルの体系的なドクトリンを提出していません。日本海軍が艦隊決戦思想から抜け出して、運用レベルで空母中心になったのは、終戦の前年の1944年になってのことでした(野中郁次郎ほか『戦略の本質』日本経済新聞社、2005年、5ページ)。旧海軍の関係者からも、艦隊決戦の術科面のみが重視されていたとの反省が示されています(岩村研太郎「日本海軍の航空への取り組みにかかる問題点」『海幹校戦略研究』第19号、2020年4月、23-38ページ)。