かくして、標準には「正しいも悪いも別にない、ただみんなで揃ってればいい」という純粋な同調圧力にNormalの中身が化けてしまい、結果として「これは正しいのか?」と内面で問うことなく、単に外見を周りと同じに合わせることが最優先の課題になった。日本では。

そのなれの果てが、世界で唯一「いまだにマスク」、インバウンドで稼ぐはずなのに「和服でマスク」の惨状なわけですが、実はそうなるのにもルーツがある。2023年5月にウィルスの扱いが「感染症法5類」になり、コロナ禍が終わる手前の時期に、指摘したことがあります。

「医学的な根拠はない」のに、マスクを外せない...「キリシタンの踏絵」と化したコロナ対策の末路
<5月8日、感染症法における位置づけが「5類」になる新型コロナウイルス。私たちはこの日を境にマスクを外すのか。それとも「マスク信仰」を棄教することができないのか> 5月8日、ようやく新型コロナウイルス...

私たちがマスクを着け続けてきたのは、近代科学とはまったく異なる別の理由によるものだ。それは日常生活で接する周囲のローカルな集団に対して、「私はまじめですよ」「みなさんの調和を破りませんよ」との信仰を互いに告白しあう、一種の民俗宗教だろう。

まさしく誕生のきっかけこそ宣教師の来日であれ、日本に固有の文脈の下で正統派のキリスト教とは別個で独自の内容に育った「カクレキリスト教」に等しい存在が、いまや世界でわが国だけに残る「マスク信仰」だったわけである。

掲載日は2023.4.28

はい。そゆこと。外見上で調和を破らないことが、江戸時代以来、日本では社会秩序の根幹なので、「とりあえず」マスクしてりゃ周りから責められないじゃないっすか、という場所にいちどハマると、出てこれない。

あまり知られてないけど、実は「キリシタンの踏絵」ってまさにそれだったんですよ。別に、個人の内面まで分け入って思想を管理したというよりは、「とりあえず」これだけやってくれれば放っておいてやるから的な。