コロナ禍との対照で興味深いのは江戸時代の後期、1805年に天草地方で発覚した潜伏キリシタンの事例だ(天草崩れ)。なんと全人口の3分の1がキリシタンであることがわかってしまい、強硬路線で全員を弾圧すれば「経済が回らない」事態となった。

そのため領主側は彼らをキリシタンと見なさず、単なる「心得違い」にすぎないとし、拝んでいたご神体を供出させた上で、踏絵を踏ませたのみで無罪放免とした。「マスクさえしていれば」旅行や外食にも目を瞑ろう、という今日の私たちの心性と、「踏絵さえ踏むなら」それ以上の詮索はやめようとする近世期の宗教統制の発想は、実はそう違わない。

同上

こう書くと湧きがちなのが「エラソーに言ってるけど、後出しだろ?」みたく因縁をつける人なんですけど、違うんですねぇ。まだ最初の緊急事態宣言中だった20年5月から、ホンモノは全国紙でこう書いています。

コロナ自粛下の連休は、なるべく外食をして過ごした。こうしたときに利用しなくては、お世話になっている飲食店を守れない。

ちょうど緊急事態宣言の延長が報じられた頃から、街頭にもマスクなしの姿が増えていった気がする。当然のことで、そもそもガラガラの大通りを、息をひそめて歩く方がおかしい。 (中 略) 1人分のお代しか渡せなくても、来客にお店の人は心からの笑顔を見せてくれる。そうした肉感性のある「個人」とのつながりを経てこそ、抽象的な意味での個人主義も根づくのであって、逆ではないのだ。

『歴史なき時代に』202-3頁 初出は『朝日新聞』2020.5.14

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