発売中の『潮』8月号に、2年間ほど続いた読書座談会の完結を受けた寄稿が載っている。参加者は、岩間陽子・開沼博・佐々木俊尚・東畑開人の各氏で、もちろんぼくも一文を寄せている。

許可を得て、ぼくの文章の全文を載せる。編集部によるタイトルは「異論が排除されない自由な空間を」だけど、基本的には、マスクを外せない飲食店員の不自由について書いている。

2年を超す楽しい座談会の打ち上げで、素敵な日本料理を愉しませていただいたのだが、ひとつ、心の翳りになることがあった。

この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装も台無しで、インバウンドで訪れた外国人はがっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない。

5年前に始まった新型コロナウイルス禍では、なにより「これはおかしい!」と言える場所こそが必要だった。しかし、それはなかった。あったのは、感染症医学に代表される単一の専門の視点から、「これだけが正しい」とする姿勢で主張を発信し、それへの反論はあたかも「ない」かのように扱う、現実から乖離した情報環境である。

たとえば「憲法学的には自衛隊は違憲です」という主張があったとして(実際にあるが)、じゃあ自衛隊はなくしましょうとは、ふつうならない。「安全保障の専門家としては、自衛隊は必要です」とする主張が、なら憲法を停止しましょうといった即断を生まないのと、同じことだ。

ところがそれは平時の話で、異常事態で社会がパニックに陥る「戦時」となると、そうした感覚はあっさり消し飛び、単一の分野の「専門家」だけが突出して言論を独占することを、コロナの体験は教える。そしてその後遺症は、和服にマスクの異様な光景として、そもそものきっかけが忘れられた後にまで、続いてしまう。

だから私たちは、ふだんから「平時」を強化しなくてはならない。つねに複数の観点があり、異論に対しても排除はされず、合意に至らなくても論じあえるのが私たちの本来のあり方なのだと、絶えず確認し、共通の感覚を養わなくてはならない。