やはり「ごっこの世界」にいわく――

わいせつとは、超えがたい距離が存在するという意識と、それにもかかわらずそれをこえて自己同一化をおこないたいという欲望との組合わせから生じる状態だからである。 性交そのものはわいせつではないが、性交をのぞきながら自分が性交している幻想にひたるのはわいせつである 。

144頁 自己同一化のルビは、 「アイデンティフィケーション」

芸術上の性描写と、いわゆるポルノの違いは、描かれる性行為を「自分がやっているかのように」感じさせることを主目的とするかにある。もっとも、ポルノとして作られても芸術的な作品があるように、その目的で作られてはいないものを勝手にポルノとして消費することも起きえる。

もしいま「「ごっこ」の戦争が終ったとき」という論説が書かれるなら、戦争そのものは猥褻ではないが、戦争をのぞきながら自分が戦争している幻想にひたるのは猥褻である、となるだろう。寄り添い手と本人、代弁者と当事者のあいだに「超えがたい距離が存在する」のは、自明だからだ。

ウクライナものはもう旬が過ぎて「ホットイシュー」じゃないから、専門家の分析の正誤なんて検証しない、と居直る業界人は、戦争を「稼げるポルノショー」くらいに思っている。ポルノでない作品の俳優のようには、誰もポルノスターに演技力なんて求めてないでしょと言わんばかりだ。

拙著『江藤淳と加藤典洋』を踏まえた、浜崎洋介さんとのYouTubeの後編では、かくも冷徹な指摘をしたはずの江藤自身の限界も含めて、いま、あるべき日本と世界の関わり方について議論した。