イギリスのベン・ウォレス国防相(当時)は、ロシアに対する外交努力には「ミュンヘンのにおいがする」と発言していました。「ミュンヘン宥和の再来はごめんだ」との意図を示唆していたのでしょう。ただし、この歴史の教訓は全ての危機や紛争にあてはまるわけではありませんし、その誤用の代償も大きいのです。

第1に、国家間の対立をミュンヘンのアナロジーで理解してしまうと、それが善と悪との戦いに再解釈されてしまい、危機を政治外交で解決させる、あるいは終息させる可能性をほぼなくしてしまいます。

第2に、これは悪とみなされた敵を徹底的に倒す行動を正当化しかねないので、ウクライナ危機をめぐる核武装大国である米ロ間の恐ろしい核戦争のリスクを高めることにもなりかねません。要するに、ミュンヘンのアナロジーのメンタル・マップを持った国家の指導者は、プーチンという「悪」に対するいかなる妥協も許されないと考えてしまうことにより、危機や紛争への柔軟な外交的アプローチの幅をどんどん狭めてしまうのです。

興味深いことに、アメリカの世論調査(2022年2月)によれば、72%が、アメリカはロシアとウクライナの紛争において小さな役割を果たすか、全く何もすべきではないと回答していました。しかし、バイデン政権はロシアに対して妥協を拒む強い姿勢でのぞみました。

バイデン大統領はインテリジェンスからロシアの侵攻が迫っているとの報告を受けた際、「これは狂気の沙汰だ…何よりも第一にそれを防ぐのだ…しかし、このことを防ぐわれわれの能力には限界がある」と発言したにもかかわらず、「とにかくやれ。試してどうなるかを見よう」という投機的で論理的でない方針をとってしまいました(Bob Woodward, War, Simon&Shuster, 2024, pp. 68-69)。かれには、「なんとかなるかもしれない」という楽観バイアスがあったようです。

戦争を防ぐ失われた機会