これに対して網野は、

五〇年代後半からですね。農業が発展して、「封建社会」が発展するのが、歴史の「進歩」であるとする見方に対する疑問がそのころから出てきました。※13)

と応じている。もし網野が1950年代後半から進歩史観に疑問を持っていたとすると、その先見性は際立っている。だが果たして、40年以上経ってからの回想談をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

これに関連して、網野の主張の特徴として、独学の強調が挙げられる。アナール学派からの影響については「フランス語は読めないですから直接の影響などまったくありません」「アナール派の翻訳もほとんどされてなかったですから、私は全然読んでなかった」などと事あるごとに否定している※14)。

けれども、語学力の不足という語りには謙遜の恐れがあり※15)、外国の文献を参照せずに全く独自に研究を進めたという網野の主張を疑問視する研究者もいる※16)。

前述の1950年代後半の再出発に関しても、網野は独学を強調する。

大学時代から卒業してしばらくは、運動の中で調子よくリーダー面をしていたのですが、五〇年代後半に高校教師になってからは、若い研究者の中で私の顔を知っている人はほとんどいなくなったし、学会の議論は私には無縁のような感じがしていました。さほど自覚的に拒否したわけでもないけれども、行く意欲も起こらないので研究会などには行きませんでした。※17)

しかし網野は、決して学界の研究動向に無関心だったわけではない。安良城盛昭が1953年に発表した論文「太閤検地の歴史的前提」を契機に歴史学界には「安良城旋風」が巻き起こり、太閤検地、さらには中世と近世の時代区分をめぐって激しい論争が展開された。網野がこの論争を「雲の上の議論」と言いつつも、その行方に深い関心を寄せていたことは、回顧談からもうかがえる※18)。

網野は往時を「歴研(筆者註:歴史学研究会)の部会には殆ど出席しませんでしたし、大会に出席しても遠くの方で報告を聞いているだけでした」「歴研の部会や大会に出てもさっさと帰ってしまう」と振り返り学界との断絶を主張するが※19)、逆に言えば出席して報告を聴くことは欠かしていなかったのである。