ここで言う「運動」とは、民主主義科学者協会(民科)歴史部会が展開した国民的歴史学運動のことである。国民的歴史学運動は、日本史の中から輝かしい「民族文化」を発見し、日本人に民族の誇りを持たせることを通じて、アメリカの帝国主義から日本を解放することを目的とする民族解放運動である。石母田正や松本新八郎らが運動を主導し、多くの歴史家や学生が賛同した。
網野は国民的歴史学運動への自身の関わりについて以下のように語っている。
一九五二年のころから、共産党が武装闘争の方針をとるようになり、それに基づいて国民的歴史学の運動が展開されていったのですが、五二年から五三年にかけて、活気にみちていたこの運動は、やがて次第に一種の退廃の様相を呈し始めます。もともと現実から遊離した観念的な運動で無理をしているわけですから、おのずとこのころ、運動はあらゆる面で疲労と退廃の兆候を示し始め、それが歴史学界にも及んできます。※7)
民族独立の運動が、「毛沢東路線」で急進化して「山村工作隊」の運動がはじまります。遅れた山村にゲリラの根拠地を設け、そこを拠点に革命を起こすということを本気で考えていたのです。私は当時督戦隊みたいな立場にいたので、山村には行きませんでした。人をあおっておいて、自分は安全なところにいたのですから罪意識が非常に大きいですね。まさしく「戦犯」といわれても仕方がありません。※8)
自らは真に危険な場所に身を置くことなく、会議会議で日々を過ごし、口先だけは“革命的”に語り、“封建革命” “封建制度とはなにか”などについて、愚劣な恥ずべき文章を得意然と書いていた、そのころの私自身は、自らの功名のために、人を病や死に追いやった“戦争犯罪人”そのものであったといってよい。※9)
「歴史学を国民のものに」をスローガンとした国民的歴史学運動は、日本共産党所感派の武装闘争路線を前提としていた。そのため国民的歴史学運動はサークル活動や聞き取り調査に基づく民衆史研究や紙芝居・人形劇などによる民衆への実践的歴史教育に留まらず、武装闘争へと展開していく※10)。共産党は「民族の英雄」の美名の下に勤労青年や学生たちを山村工作隊として工場や農村に派遣し、革命の拠点を作るよう指示した。