だが網野は共産党内で将来を嘱望されていたらしく、革命の最前線には派遣されず、警察に逮捕される恐れのない安全な場所から国民的歴史学運動を指揮した。運動の激化や共産党の内部抗争によって多くの仲間が傷ついていく中、網野は次第に運動に疑問を持ち始め、組織内での人間的摩擦もあって1953年の夏に運動から離脱した※11)。
なお日本共産党は1955年に第6回全国協議会(六全協)で従来の武装闘争路線を「極左冒険主義」として全否定した。これによって国民的歴史学運動は終焉し、「政治主義による学問の引き回し」と総括された。
国民的歴史学運動から離脱した網野は、日本共産党の政治活動そのものから距離を置くようになる。これは網野にとって自らの学問を根本的に問い直す契機となった。網野は文化人類学者の川田順三との対談で次のように回顧している。
大学を出たころ、人のシェーマにのっかって、ものを見始めた時期がいちばんいけないんです。つまり、自分のシェーマに都合の良いことを本の中で確認しているだけなんですね。だから、沢山読んでいるつもりになっていたのですけれども、自分は人の見方を真似していただけなんだとハタと気づいた時には何も残っていないんですよ。本当になにも覚えていないんです。だから私は、それから結局全部最初からやり直しです。二十五、六歳の頃でしたが、読んだつもりだった本や前に集めた資料をもう一度ひっぱり出して読み直すことから始めなくてはならなかったのです。※12)
網野は1953年に25歳になっている。この川田順三との対談と、先の小熊英二との対談、そして冒頭の『無縁・公界・楽』のあとがきを踏まえると、国民的歴史学運動から離脱して学問を一からやり直して間もない時期に、網野は「ザスーリチへの手紙」と出会い、自らの学問の新たな指針としたことになる。
しかし、以上はあくまで、網野が後年になって当時を振り返った証言である。網野の主張に従えば、網野は極めて早い時期から、「ザスーリチへの手紙」を通じて、進歩史観への違和感を抱いていたことになる。この点は小熊も疑問に思ったようで、「網野さんの進歩史観というか、マルクス主義の発展段階論への単純適用というものへの違和感というのは、六〇年代からもう出てきていたわけですね」と確認している。