網野がその名を世間に広く知られる契機となった代表的著作『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社、1978年)のあとがきには、次のような記述がある。
このテーマを考えるようになった最初のきっかけは、二十五年ほど前、本書(第21章)にあげた川崎庸之氏の論稿に接し、以後、氏の諸論文を漁り読んで強烈な感銘を受けたことにある。古代の公民が、原始の氏族共同体以来の自由民の伝統につながる、という川崎氏の確固たる発言と、同じころ熟読したマルクスの「ヴェラ・ザスリッチへの手紙」の中で強調されている「原始共同社会」のおどろくべき長い生命という指摘とは、あわせてその後の私をとらえてはなさなかった。※4)
これによれば、網野は『無縁・公界・楽』の核心的テーマである「無縁」=「原始の自由」は、ベラ・ザスーリチへの手紙を読み直すことで得た着想が基になっているという。この網野の発言は、「網野史学」の形成過程を解き明かす鍵として重視されている※5)。
だが、網野と「ザスーリチへの手紙」との邂逅について、網野本人や網野の甥の中沢新一の回顧談の内容(後述)を無批判に受容すべきではない。
本稿では、「ザスーリチへの手紙」が網野の学問にいつ、どのような形で、いかなる影響を与えたのか、同時代の文献に基づき再検討を行う。
2. 網野証言への疑問
網野が「ザスーリチへの手紙」に注目したのは、いつ頃からなのだろうか。まずは網野自身の証言を確認しておく。網野は2001年に社会学者の小熊英二と対談した際、次のように述べている。
私は一九五三年、それまで観念的な「マルクス主義」にもとづいた運動を行っていたことに気づき、運動から落ちこぼれて身を引いたあとに、マルクス・エンゲルス選集をあらためて読み直していましたが、その中で、晩年のマルクスの「ヴェラ・ザスリッチへの手紙」などを読んでみて、マルクス自身が単純な「進歩」史観ではないことを知り、自分自身の考えの一つのよりどころにするようになりました。※6)