リフキンは、価値がゼロだから価値を説明する理論はすべて無効だと、やや短絡に結論する。そうなるのはリフキンが価値を効用に寄せて見ているからだ。彼の価値は俗にいう“値打ち”に近いものでもあろう。日本でリフキンを承継した佐藤典司も同様の傾向にある。
メイソンは違う。労働価値説の中に、この説を否定する要素が含まれている、と主張する。経済システムとしての資本主義を発展・拡大させる要素が、あるステージになると資本主義を否定する要素に転化する。この『資本論』と同じ論理が労働価値説という玉手箱のような狭い枠内でも展開する。価値を説明する論理がやがて無効になる。労働価値説は自己否定を内包している学説なのである。
「労働価値説は、一定の循環プロセスと最終的には長期的崩壊につながるプロセスの両方を同時に説明するものなのだ。」(P.266)。
メイソンはこの“説明”に力をこめている。筋だけ示せばこうなる。キーワードは生産性である。生産性を上げるには労働効率をよくするか、機械を改良するかのどちらかである。前者は教育とか研修であり、成果が見えるまでに時間がかかる。そこで一般的には後者が追求される。そうすると投入される総資本のうちの機械が占める比率が上昇する(資本の有機的構成の高度化)。
「これは重要なポイントだ。生産性を向上させるには、雇用された人の生きた労働に対する「機械」の価値の割合が高くなる。」(P.271)。
個別資本では、こうした生産性の上昇は一時的に利潤を増やすが、資本社会全体としては利潤が減る。これが「利潤率の傾向的低下」法則である。
メイソンは労働価値説を支持し「労働価値説を用いればすべて説明がつく。・・・労働がまったく入らなくても、生産物と新しい過程が生み出されるときにどんなことが起きているかということを説明するのにも使える。」(P.272)と主張する。
労働価値説に対抗する効用学説は、それがそもそも商品の希少性を前提にしているから情報化時代には使い物にならない。「制限なく増加できる生産物などあるはずがない。社会的富を構成するあらゆるものは・・・限られた量でしか存在しない」というワルラスの言葉はもはや通用しないのである。あるテレビドラマの海賊版は放送から24時間以内に150万本もダウンロードされた。メイソンの示す例だ。