日本も昭和36年(1961年)の「国民皆年金」と「国民皆保険」の実現までは、主として「血縁」のなかで困窮者を助けてきた歴史を持っている。

図3 福祉と伝統文化 (出典)金子、1995:75.

台湾・台北調査に4回出かける

台湾の研究者との縁が出来たので、日台の家族構造や福祉支援の調査を初めて「松下国際財団」に申請したら認められた。

中国語はできなかったが、日台間には日清戦争から太平洋戦争までの約50年間、日本統治の歴史があり、95年段階では60歳以上の本省人(もともと台湾に住んでいた人々)のかなりな部分は日本語が話せたので、インタビューは楽であった。

また、台湾で使用されている漢字は、団塊世代の10歳ころまでは日本でも日常的にも使われていた旧漢字だったので、漢文の要領でじっと眺めていると、台湾当局からいただいた調査資料などもほぼ7割程度の意味が分かったように思う。

文化の相違は歴然

しかし、文化は予想以上に異なっていた。何しろ沖縄・那覇空港からわずか1時間の距離なので、日本や沖縄の経験が活かせるだろうと予想していたが、それは完全に間違っていた。

たとえば日本農村では長子単独相続が普通であったが、台北での調査からは「男の兄弟のみの均分相続」が基本になっていた(金子、1995:77)。

幼児の面倒は「宗族」とりわけ祖父母でみる

ただし、まだ保育所が少なかった時代だったので、共稼ぎが当然の文化の中では、幼児の面倒は「宗族」とりわけ祖父母がみていた。

子どもは「宗族一同の財産」であり、夫婦だけのものではないという価値基準が濃厚に認められた。

沖縄と台湾で盛んな頼母子講

ただ沖縄と同じだなと感じたのは、民間の「私金融組織」への参加が非常に盛んなことであった。沖縄ではいわゆる頼母子講として「無尽」が健在であり、一定の期日に参加者が掛け金を出して、くじや抽選で当選した人に一定の金額を給付するシステムが十分に機能していた。