時はまだ軍事政権によるカタルーニャ弾圧が激しかった時代。スペイン国歌が流れれば、観衆は指笛とブーイングでそれをかき消し、政府側も報復措置としてレス・コルツの3か月使用禁止を通告した。さらに1936年にスペイン内戦が始まると、フランコ政権は、バルセロナ会長のジュゼップ・スニュル氏を暗殺。クラブ名もスペイン語の「クルブ・デ・フトボル・バルセロナ」とされ、エンブレムすらスペイン国旗に近いものに修正された。

迫害を受け続けたバルセロナだったが、チームは奮闘を続け、1950年代には国内で敵なしの強さを誇るようになる。そして、レス・コルツの収容人数ですら手狭になり、1957年、収容人数93,053人を誇るカンプ・ノウが竣工されたのだ。この数字は今でも欧州最大だ。

カンプ・ノウ建設費用捻出のため、レス・コルツは土地ごと売却され、解体された。その跡地には住宅街と児童公園が建てられているという。


エスタディオ・ビセンテ・カルデロン 写真:Getty Images

エスタディオ・ビセンテ・カルデロン(1966-2017)

所在地:スペイン、マドリード(アトレティコ・マドリードが使用)

スペイン3強の1つ、アトレティコ・マドリードのホームスタジアムとして1966年に開場したエスタディオ・ビセンテ・カルデロン。1982年W杯スペイン大会の1つにも選ばれただけではなく、サッカー以外にも、マイケル・ジャクソンやピンク・フロイドといった大物アーティストのスタジアムライブも開催された。

収容人数は54,907人。アトレティコが2部に降格した2000/01シーズンでの開幕戦で、超満員のサポーターが出迎えイレブンの背中を押した出来事は、サポーターのクラブ愛の強さを物語っている。

ビセンテ・カルデロン会長在任中(1964-1980、1982-1986)黄金期を過ごし、同氏の名が冠されている本スタジアム。メインスタンドの下に高速道路が通るという珍しい設計だったが、UEFAスタジアムカテゴリーでは最高評価の「カテゴリー4」を得ていた。