だから、これからも定期的に、可能なら「万博」がある日本であったらいいなと個人的に思うところがありました。

もちろん、こういう「新書型機能」をもっと低コストで別の形でちゃんと実現できる新しいフォーマットを発明できたらそれが一番良いのかもですが・・・

9. 「イベントをやる・やらない」の二択ではなく、予算配分を「メタ正義」的にやれるかどうか

今、「万博批判派」は、「巨大イベントに対する反発心や忌避感」が高まってる現状を吸い上げて体現しているとは思いますが、じゃあこの

「社会の中の”新書”的機能」=「万博」の存在意義をこれからどう代替していくのか?

…という部分がまだ誰も見えてないので、ひょっとすると徐々に耐用年数来てるかもしれない「万博」フォーマットから人々は離れられないみたいなところはあるなと思います。

そういうところで「新しい納得感のある投資先の振り向けバランス」を作っていく必要があるんですね。それができない限り「今までの惰性」の投資の仕方を続けてしまうので・・・

そういう意味では、万博賛成派の「言っていること」ではなく「本質的な存在意義」に向き合い、その「相手側の正義」も取り込んで自分たちが体現することによってのみ、その対立党派を本当の意味で乗り越えることができるという「メタ正義」的発想が必要な領域がここにはあるんですね。

実際、日本国全体の予算規模は年間百兆円を超えてるんで、「ごくたまにやるイベントに数千億円」はこれからも決して払えない額というわけではないはずなんですよ。

続きの記事で詳しく書きますが、大阪維新だけで見ても、大阪府政を握った2008年から今までぐらいの間に、数兆円規模ぐらいの財政再建効果を出してるので、その規模感からみても、「皆のためになると納得されるなら」数千億のイベントをやる意義は今後もありえる。

ただ

・「他の費目とのバランスにおける納得感」をいかに持てるようにするか?