プレミアリーグ創設(1992年)前のイングランドリーグで、レスター・シティ(1978-1985)でもエバートン(1985-1986)でも得点王を獲得し、1986年に期待を一身に背負いバルセロナ移籍を果たした元イングランド代表FWゲーリー・リネカー(1994年引退)。

バルセロナ移籍初年度(1986/87)と2年目(1986/87)はそれぞれ21得点、20得点の結果を出し、期待に応える活躍を見せていたが、運命を暗転させる人物が監督に就任する。バルセロナのレジェンドとして数々のタイトルをもたらしたヨハン・クライフ(1988-1996、2016年死去)が指揮官として、本拠地カンプ・ノウに帰ってきたのだ。

クライフ監督は、流動的でパス中心のサッカーを志向。しかし、リネカーは典型的な点取り屋で、その“仕事場”はゴール前だ。リネカーは監督が求めるポジショニングやビルドアップへの関与に応えられなかった。そんなリネカーにクライフ監督は左ウイングのポジションを与えると、これにリネカーは怒り、さらにケガやコンディションの問題も発生し、出場機会を徐々に減らしていく。

それでも契約最終年の1988/89シーズン、UEFAカップウィナーズカップでは優勝に貢献。このタイトルを置き土産にスペインを去り、トッテナム・ホットスパー(1989-1992)に移籍した。

リネカーは後日、スペインのサッカーと生活に適応する困難さを口にし、特にスペイン語の習得やバルセロナの文化への適応に苦労したと語っている。トッテナム移籍後の1989/90シーズン、いきなりイングランドリーグの得点王に輝き、復活をアピールしたリネカー。そして1992年、彼はJリーグ名古屋グランパスのエースとして、日本の地を踏むことになった。

ガイスカ・メンディエタ 写真:Getty Images

ガイスカ・メンディエタのラツィオ移籍(2001-2002)