金満で鳴らすオーナーのロマン・アブラモビッチ氏が熱望した移籍だったが、当時のジョゼ・モウリーニョ監督(現フェネルバフチェ)の戦術は、より組織的で守備的なアプローチを重視。シェフチェンコのスピードやゴール前の自由な動きは制限され、コートジボワール代表FWディディエ・ドログバのようなフィジカルを生かすストライカーが重宝された。
フィジカルコンタクトが求められるプレミアリーグのスタイルに苦しみ、本来の決定力を発揮できないシェフチェンコ。度重なるケガにも悩まされ、出場機会も思うように得られず、古巣ミランへの期限付き移籍(2008-2009)を経て、最終的には10年ぶりにディナモ・キーウ(2009-2012)へ復帰し、2012年に引退した。
シェフチェンコの移籍は、戦術的なミスマッチの典型例だ。ミランでは自由を与えられゴール前での決定力が生かされていたが、チェルシーでは守備のタスクを求められ彼の良さが消されてしまった。また、高額な移籍金がプレッシャーとなったという側面もあるだろう。同ポジションのライバルのドログバがキャリアの絶頂期にあったことも不運だった。
また、当時の英国メディアは、オーナーのアブラモビッチ氏とモウリーニョ監督の意見の対立がシェフチェンコの起用やチーム内での立場に悪影響を与えたとも報じている。

ジョゼップ・グアルディオラのブレシア移籍(2001-2002、2003)
バルセロナの下部組織「ラ・マシア」育ちで、1990年から2001年の間に欧州チャンピオンズリーグ(CL)1回、リーグ優勝6回、スペイン国王杯優勝2回、さらにはU-23スペイン代表として初の金メダル獲得にも貢献したMFジョゼップ・グアルディオラ(2006年引退、現マンチェスター・シティ監督)。
バルセロナでシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスが成長し台頭したことで、2001年、31歳にして初の海外挑戦を表明すると、イングランドやイタリアから多くのオファ―が届く。その中にはマンチェスター・ユナイテッドやリバプール、ミランやインテルといったビッグクラブも名を連ねていた。