そこからグアルディオラが選んだのは、セリエAでも“弱小”の部類に入るブレシアだ。その決め手は、イタリア代表主将として、1998年のW杯アメリカ大会で準優勝に導いたFWロベルト・バッジョの存在だった。セリエAに昇格した2000/01シーズンに8位という好成績を収めた上、バッジョとグアルディオラという“夢のホットライン”は、サッカーファンの胸を躍らせた。

しかし、フタを開けてみれば、グアルディオラのパフォーマンスは全盛期に及ばず、そのプレースタイルから“絶好のボールの奪いどころ”と狙われ、対戦相手から削られまくることになり、度重なる負傷にも悩まされた。バッジョという稀代のファンタジスタと、グアルディオラという才能豊かなプレーメーカーとの化学反応は失敗に終わり、ブレシアの2001/02シーズンは13位に低迷してしまう。

バルセロナのようなポゼッション重視のスタイルとは異なり、中盤の底から攻撃を組み立てるグアルディオラの能力が十分に生かされなかった。さらに不運が彼を襲う。ドーピング検査で陽性反応を示し、4か月の出場停止処分を受け、裁判でも有罪判決を受ける。本人は潔白を主張したが、彼の無実が確定したのは引退後の2009年のことだった。

半年間のローマへの期限付き移籍を挟んで、彼のイタリア挑戦は「失敗」の烙印を押されたまま、失意にうちにカタール(アル・アハリ・ドーハ/2003-2005)、メキシコ(ドラドス・シナロア/2005-2006)と渡り、2006年にひっそりと引退。輝かしいバルセロナ時代とは打って変わって、寂しいキャリアの晩年を送った。

しかし、翌2007年からバルセロナのBチームで指導者キャリアをスタートさせると、その才能が開花。バルセロナ(2008-2012)ではリーグ3連覇、CL優勝2回。バイエルン・ミュンヘン(2013-2016)でもリーグ3連覇、FIFAクラブワールドカップ優勝。2016シーズンから監督を務めているマンチェスター・シティでも4連覇を含むリーグ優勝6回、CL優勝1回と結果を残し続け、その年俸は2,000万ポンド(約36億円)まで跳ね上がった。