行き場をなくしたマラドーナだったが、FIFA(国際サッカー連盟)が介入するという異例の展開を見せ、1992年にラ・リーガのセビージャへ移籍。バルセロナ(1982-1984)で実績があったことや、当時の監督がかつてアルゼンチン代表を率い、1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会で優勝に導いたカルロス・ビラルド監督(1992-1993)だったことで、再び活躍が期待された。
しかし、マラドーナのコンディションは全盛期とは比べ物にならないくらいに低下しており、かつての輝きを取り戻すことはなかった。セビージャでの戦術にもフィットせず、リーグ戦出場試合は26試合に止まり5得点に終わる。わずか1シーズンで、母国のニューウェルズ・オールドボーイズに移籍していき、マラドーナの欧州でのキャリアは終わりを告げた。
セビージャへの移籍は、マラドーナのキャリアの晩年を象徴する出来事として語られている。この1シーズンは、彼の偉大なキャリアにおける数少ない“汚点”とも言えるものだった。
さらに、1993年に加入したニューウェルズでも素行不良でわずか4か月で解雇され、所属クラブなしの状態で臨んだ1994年のW杯アメリカ大会では、ドーピング違反でFIFAから15か月間の出場停止処分を受けることになる。
キャリアの最後は1995年、14年ぶりにボカ・ジュニアーズ(1995-1997)へ復帰し、1997年、37歳の誕生日(10月30日)に現役引退を発表した。
その後、2010年のW杯南アフリカ大会ではアルゼンチン代表監督としてチームをベスト8に導いたかと思えば、私生活では薬物依存や不摂生による入院、報道陣への発砲事件などといったお騒がせエピソードを残し、2020年、60歳の若さでこの世を去った。
