これに激怒したのが、当時安貞桓が所属していたセリエAペルージャのルチアーノ・ガウッチ会長(2020年死去)だった。元日本代表MF中田英寿の獲得を成功に導き、馬主としてもたった約65万円でトニービンを購入し、イタリア馬として27年ぶりとなる競馬界最高のG1レース・凱旋門賞制覇を成し遂げ、引退後は日本で種牡馬として9頭ものG1ホースを輩出するなど、“目利き”として知られる名物オーナーである。

ガウッチ会長は安貞桓を裏切り者呼ばわりし、即、契約を解除。元々、Kリーグ釜山アイコンズからのレンタル移籍だったため欧州クラブへの移籍を模索するが、W杯での活躍によって移籍金は跳ね上がり、オファーするクラブが現れなかった。そこで、パチンコメーカーのフィールズ株式会社の子会社のプロフェッショナル・マネージメント株式会社がペルージャと釜山双方に金銭を支払い、保有権を買い取る形で日本上陸を果たしたのだ。

清水では即、レギュラーポジションを奪取した安貞桓。ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァン杯)では2年連続4強に進出し、第1回ACL(AFCチャンピオンズリーグ)にも出場し3ゴールを記録(清水はグループリーグ敗退)。しかしリーグ戦では中位に留まり優勝戦線に絡むことはなかった。

そして1年半の所属後、2004シーズンに横浜F・マリノスへ完全移籍。終盤4試合で4試合連続ゴールするなど、2003シーズンに続くJ1連覇に大きく貢献した。

清水と横浜FMで通算97試合47ゴールという好成績を残し、欧州再挑戦に挑むが、リーグ・アンのFCメス(2005-2006)、ブンデスリーガのMSVデュースブルク(2006)ではともに2部降格の憂き目に遭い、Kリーグに復帰。キャリアの最後は中国スーパーリーグ、大連実徳(2009-2011)で過ごした。

タナボタ的に清水にやってきた安貞桓だったが、ゴール数以上にクラブの人気や知名度の面で大きく貢献した。アラウージョ同様、移籍先のクラブを優勝に導いたことで、清水在籍期間がJリーグ適応への“試運転期間”だったと割り切れば、その後の活躍ぶりも理解できよう。

ミッチェル・デューク(左)写真:Getty Images

ミッチェル・デューク(清水在籍:2015-2019)