しかし石崎監督の元で清水が披露するサッカーは、長身のチョ・ジェジン目掛けてロングボールを蹴り込むだけの退屈極まりないもので、セカンドステージも14位(年間14位)に終わり、最終節でJ1残留を決める有り様だった。地元紙の静岡新聞に「石崎監督続投」を報じられると、サポーターは一斉に反発。同監督はホームゲーム最終戦後の挨拶も拒否し、逃げるようにクラブを後にした。

当のアラウージョには当然ながら、他のJ1クラブからのオファーが届く。そこから彼が選んだのは、西野朗監督が率い攻撃サッカーを展開していたガンバ大阪だ。背番号「9」を背負い、本来の決定力を存分に発揮し、33ゴールで得点王とMVPに輝き、G大阪をリーグ初優勝に導いた。

この活躍が認められ、2006シーズンには母国の名門クルゼイロ(2006-2007)、カタール・スターズリーグのアル・ガラファ(2007-2011)などを渡り歩き、特にアル・ガラファでは4シーズンで計101ゴールを記録した。

清水のスカウティングに狂いはなかったが、いかんせん当時の清水は、代表歴のあるMF澤登正朗、MF伊東輝悦、MF戸田和幸、DF斉藤俊秀、DF森岡隆三らがキャリアの晩年に差し掛かり、若手も思うように伸びてこない端境期にあった上、監督人事も失敗するなど、新入団の外国籍選手にとっては不憫な境遇だったといえるだろう。


安貞桓 写真:Getty Images

安貞桓(清水在籍:2002-2003)

なぜ韓国サッカー界のアイドルだったFW安貞桓(アン・ジョンファン)が清水に来ることになったのか。それは、2002W杯日韓大会において韓国代表のエースとして出場した安貞桓が、後にバイロン・モレノ主審の不可解な判定などを含め、サッカー界の歴史に残る“一大スキャンダル”となった決勝トーナメント1回戦のイタリア代表戦で、ゴールデンゴールを決めたことが発端だ。