いくつかのCPS関連の論文は公表していたが、有名教授ばかりの『政治社会学入門』のメンバーに加えていただいた喜びは大きかった。
奥田道大ほか『コミュニティの社会設計』(1982)へのお誘い
2年後、今度は立教大学奥田道大先生から『コミュニティの社会設計』(有斐閣)の企画があり、そこでの分担執筆をお願いしたいという連絡をいただいた。これもまた快諾して、1981年の夏に当時東大本郷前にあった有斐閣の別館に5名の執筆予定者が泊まり込んで、本の内容について真剣な意見交換をした。
そこで同じ団塊世代の当時は津田塾大助教授の梶田孝道氏(後に一橋大学教授)にお会いして、彼が50歳代終りで亡くなられるまでの交流が始まった。『コミュニティの社会設計』は1982年に刊行されたが、それは拙著『コミュニティの社会理論』と同じ年であった。
中村八朗先生と倉沢進先生
このほかにも、筑波大学の中村八朗教授からも研究会のお誘いをいただき、横浜の先生宅に出かけたところ、慶応義塾大学の博士課程院生であった藤田弘夫氏を紹介された。たまたま『社会学評論』27巻2号で二人とも博士課程在学中にデビューしたから、初対面という気にはならず、すぐに打ち解けたという記憶がある。
その他、『コミュニティの社会理論』刊行までの10年間では、東京都立大学倉沢進先生の科研費による共同研究に2回入れていただき、そこでも同世代の森岡清志氏(後に、東京都立大学教授、放送大学教授)と園部雅久氏(後に上智大学教授)という生涯の友人・ライバルと面識を得た。そして、日本社会学会大会での「都市部会」などで、今日までお付き合いしていただいている吉原直樹氏(現・東北大学名誉教授)とも親しくなった。
いずれも久留米暮らしをしていた時であり、1984年に北海道大学に赴任する前であった。
日本社会学会大会で倉沢進先生の討論者
とりわけ倉沢先生には1980年に北海道大学文学部で行なわれた学会大会の折に、先生が「1970年代と都市化社会」を報告された際の討論者に指名され、先生のご報告に10分間のコメントをしたというご縁がある。これには運もあったろうが、人選に際しては先生のご配慮を強く感じた。これは1年後に学会誌に掲載された(倉沢、1981)。