1994シーズン、東北リーグで2位に入り、JFL入りを果たすと、1996年には元日本代表FWでU-20日本代表(1989-1991)やジェフユナイテッド市原(1992-1993)を指揮した永井良和氏を監督に招聘。元Jリーガーを積極的に獲得し、1996年の天皇杯3回戦では、福島県代表初のJクラブ相手からの勝利(対ジュビロ磐田/2-1)を手にした。

翌1997年、J2加盟を申請したが、その夏から選手・スタッフへの給与遅配が始まる。同クラブは一個人が財政支援を行っており、その資産及び親族から20億円の資金を借り入れてクラブ運営をしていたことが判明。さらに弁済の目処がつかずに破産させてしまった。

JFA(日本サッカー協会)がこの件を問題視したことを受け、クラブ代表がJFL事務局へ退会届けを提出、JFL評議委員会でも承認されてしまった。

これに反発したのが所属選手たち。白紙撤回を求める署名をスタートさせ、福島県サッカー協会にも新会社による運営を提案したが、選手たちの努力も空しく、JFA理事会で福島FCのJFL撤退とクラブ解散が正式決定する。

同年の天皇杯で3回戦にまで進出した福島FCは、12月14日、日本平スタジアムでの清水エスパルス戦で敗れ、その歴史に幕を閉じた。ちなみに尚志高校サッカー部監督として同校を全国区にまで押し上げた仲村浩二氏は同クラブOBで、引退直後に同高で指揮を執ることになる。福島FCの存在は確実に福島県のサッカー界に財産を残していたのだ。

この一件によって“サッカー空白県”となった福島県にJリーグの火が灯るのは、2002年に創設された福島ユナイテッドがJ3に昇格する2014年のこと。約17年も待たされることとなった。