「自助」とは、まず本人や家族が自分たちの力で問題解決を図る段階を指します。 「共助」とは、地域社会や近隣の支え合い、民間団体の助けなど、非公的な支援を意味します。 そして「公助」は、最後の手段としての行政や政府による支援を指します。

この3段階のうち、日本では「まず自助と共助でなんとかしてください」という姿勢が強調される傾向にあり、これは一見バランスが良さそうに見えますが、実際には「まずは家庭でなんとかしてください」という家族依存型の福祉です。

このため、当事者や家族が限界に達するまで行政が動きづらく、結果として“重症化した後”でないと支援が始まらないという遅れが生じるのです。

さらに、日本の行政は典型的な「縦割り構造」になっており、教育(不登校)なら文科省、医療(精神的支援)なら厚労省、他にも福祉(生活支援)・労働(就労支援)など、すべてがバラバラに機能しています。

引きこもりはこれらすべてにまたがる複合的な問題であるにもかかわらず、総合的に支援できる窓口が存在しないのです。

加えて、引きこもり当事者は社会的にも「見えない存在」であり、選挙など政治的な場面で“票にならない層”として軽視されがちです。

本人も社会から距離を置いており、声を上げる術も持たないため、政策において存在が可視化されづらく、日本の支援をさらに遅らせているのです。

なぜ海外では“同じ問題”が深刻化しないのか?

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では、なぜ欧米諸国では、日本と同様に引きこもり予備軍が存在するにも関わらず、深刻な社会問題にならないのでしょうか?

そのカギは「支援が“ある”かどうか」ではなく、「支援が“届くように設計されているか”」にあります。

北欧諸国では、「福祉は恥ではなく、当然の権利」という価値観があります。

教育・就労・生活支援に公的制度を利用することに抵抗がないため、当事者や家族が早期に支援にアクセスできます。