なんかこう、過去10年ぐらいの欧米リベラルの口ぶりは、日本人からすると「さすがにナチュラルにヒドイんでは」っていう表現が沢山あってビックリするんですよね。

冷静に考えてフェアさを超えてるっていうか、「相手にも相手の世界観や考えがある」という態度が吹き飛んでしまっている雰囲気があった。

これはより深く考えると、「倫理マニアの非倫理性」みたいな課題があるんですよね。

そもそも、普通にLGBTの人への配慮をしましょうというレベルの事を超えて、日常生活の細部の細部まで「ポリコレ的厳密な配慮」を求めて、そのマナーから少しでも外れると糾弾しまくるというのは、それ自体が結構なんというか「上流階級がテーブルマナーの厳密さでその他を排除する」的な差別構造があるわけですよね。

一種の「倫理マニアの非倫理性」というか、「最先端的に尖らせたポリコレ倫理についてこれないやつは邪悪だとジャッジする」っていうのは、「日常生活が大変でそれどころではない」層の人たちからすると許されざる侮辱みたいになってるところがある。

もちろん、「一度そこまで吹き上がってみることで常識を変える」ことが必要だったフェーズなのだ、というのは一応理解できますが・・・

しかしまあ、以下のいつもの図のように「滑走路段階」から「飛行段階」に入りつつある中で、全く新しい着地のあり方が必要となってきているわけですね。

「目指す理想」があるのはわかりますが、日常生活が忙しくてそれどころじゃないようなレベルの人にいかに「共感して受け入れてもらえるか」が必要なフェーズにすでになっているということですね。

5. 日本型のプロレス的決着が生み出す「みんな違ってみんないい」の究極形を大事にしたい

なんか、「プロレス」というのは、アメリカ以外ではメキシコとか日本とか、「アメリカと関係が深い国」でのみ流行ってるコンテンツみたいなところがあるんですが、日本のプロレスにはアメリカにない良さというのもあるように思います。