なんかこう、この部分で「女は黙ってろ」とか「芸能人と付き合いたがってるのは女のほうだろ」みたいな決着をし続けると、日本社会は男女問題でやたら分断され続けて必要な理性的議論が混乱させられ続けるので。
「右と左の政治闘争」とは分離したところで、「ダメなことはダメですね」を裁いていきつつ、とはいえ「女性に飲み会参加させるな」とかにまでなったら「働いている女性」がそれぞれの集団でちゃんと人間関係を作る能力を破壊して余計に男女平等な世の中から遠のくので、そういうところで無駄に過剰な規制にならないことも大事ですね、という感じの決着になっていけばいいですね。
今後、日枝氏の辞任問題まで発展するかどうかはまだわかりませんが、もしそうなるとしたら、以下のような
「堀江貴文&鹿内宏明側(グローバル経済におけるビジネスモデル変革のニーズ)」 vs 「鹿内春雄氏&日枝久側(コンテンツ制作上のコアを守るニーズ)」
…という「日本社会の分断」について、「新しいお互いの価値を活かし合う連携」が生まれてきて、日枝さん的な「剛腕」で無理やり何かを押さえつけて握りしめることがもうこれからの日本には不要になったのだ、というように理解すれば良い現象なのだと思います。
ちょうど、2月7日に出る私の渾身作である新刊には、そのあたりでの「過去20年の分断とそれを乗り越えるための方針」がドンピシャのテーマとして書かれているので、ぜひお読みいただければと思います(予約していただけると販促上少し良い効果があるようなので、ぜひお願いします!)。
『論破という病 「分断の時代」の日本人の使命』
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここからは、『メディアの支配者』を読んでいてもうちょっと気になった、「日本経済が調子良かった頃の”財界”の存在感」みたいな話について考えてみたいと思っています。
なんか、当時のフジテレビの「内紛」について、色んな「財界」の老人たちが仲裁に入ってきて、それでなんとかナアナアに収めようとする話が沢山出てくるんですが、ちょうどこの日枝クーデターが実現したタイミング(1990年代初頭)に、そういう「財界の相互調整」みたいなのが崩壊してくるんですよね。