以下ポストで書いたNHKの番組でも、アメリカの研究者の人が「アメリカ型コンテンツに対する日本コンテンツの美点」としてそういう要素について考察していました。
NHKスペシャル『新JAPONISM』めっちゃ良かったからぜひ見て。ウクライナ戦争で避難する時にスマホにDLしておいたエヴァを見てる家族が『アニメには善と悪の全てがある』とか、インフレで絶望してたジンバブエ人の男の子がワンピースの『生ぎたいっ!』っていうシーンで希望を繋いでたとか、泣くやろ↓
— 倉本圭造@新刊発売中です! (@keizokuramoto) January 5, 2025
だから、当時の堀江さんの買収が「拒否された」事自体は、まあしゃあないというか、それが日本なんだし、それによって温存されてきた価値というのも明らかにある。
5. 20年前の堀江氏の発想と、「破壊せずに温存してきた絆」の相互作用がアニメの海外需要の爆発を生んでいる
ただし!ここからが重要なんですが、最近のアニメへの世界需要の「爆増」レベルの増え方は、テレビ局の閉鎖的な権利関係から分離して作品自体を売りやすくするという意味において、堀江さんがやろうとしてた改革に近い発想のビジネスモデルの転換がベースになって起きてるんですよ。
だから、20年前には、
「堀江貴文&鹿内宏明側(グローバル経済におけるビジネスモデル変革のニーズ)」 vs 「鹿内春雄&日枝久側(コンテンツ制作上のコアを守るニーズ)」
っていう対立関係が当時は抜き差しならないものになってしまって、堀江氏側を「排除」せざるを得なくなったけど、今ははじめて「両者の良さ」を噛み合わせて成果を上げることが可能になってきている現状があるんですね。
20年前の段階で、堀江氏側に「押し切られて」いたら、それはそれで日本はアメリカみたいにあちこちに「ラストベルト」的な地域があり、社会の半分の人が逆の半分の人を心底憎悪しているような「今の民主主義国家の普通」状態に陥ってしまい、コンテンツの独自の強みも失ってしまっていた可能性が高い。