また、これは「コンテンツの内容」面でも言えて、以下記事で書いたように、アメリカのコンテンツがマネーゲームに巻き込まれすぎて「内容が単純化」してしまって、そこに「日本コンテンツ」が代替物として求められつつある流れというのは明らかにあるんですね。

特に上記記事で紹介した「アメリカのアニメファン」のコメントが重要で・・・

日本漫画では、例えば「戦うヒーロー漫画」を描くにしても、「ヒロアカ」のように全然力を持たずに生まれた主人公が、それでもヒーローになりたいと強く願って成長していく物語や、「ワンパンマン」のように元々超強い主人公が、しかしその強さゆえに生きる意味を見失う話や、「るろうに剣心」のように元暗殺者だった男がその贖罪のためにもう誰も殺さないという誓いとともに弱い者のために力を振るう話・・・・など、「話自体が多様」である。

一方で最近のアメコミ漫画の「多様性」とは、「バットマンのロビンをバイセクシャルにしてみました」的な部分だけが「多様性」になってしまって、本来の「ヒーローとは?」という大事な問いの部分がおざなりになってしまっている。

もちろんバイセクシャルの人の存在が自然にコンテンツに反映されること自体は大事なんですが、「その論理」だけであらゆるコンテンツをジャッジするようになると、本来「多種多様な人々を包摂し共通点を見出していくためのヨスガ」であったコンテンツの滋味を破壊してしまうんですよね。