価値法則は、交換と規定する法則だから著者の言うように価格がゼロに近くなり交換する必要がないのだったら価値法則は無視してもよいことになる。しかし、 現代のマルクス経済学者には情報を価値法則(著者の言う広々として価値ではなく、『資本論』の厳密な価値)で説明しようとする試みもある。ひとつ紹介しよう。
平松は労働を、情報を創る労働(イ)とそれを物質に埋め込む労働(ロ)に二分し、資本の 有機的構成の高度化の式を参考に“(イ)/(ロ)”を考案している。これによって労働価値説に労働の組成を加味し情報の生産を統一的に把握しようといている(平松民平「大工業からAI、NET革命へ」、『時代はさらに資本論』、昭和堂、2021年。第2章に所収)。
本書に戻ろう。著者はイギリスの優れたジャーナリスト、ポール・メイソンの『ポストキャピタリズム』(佐々木とも訳、東洋経済新報社、2017年)を引用し、本書の土台となったことを暗示している。
しかし著者とポール・メイソンには違いがある。経済学者顔負けの研究者でもあるメイソンは『資本論』、その後のマルクス経済学を実によく検討しており、情報化で商品価値がゼロに近づいた時に“労働価値説”がどうなるかを章(第5章)をあてて斬新的な切り口から論じている。このあたりの課題は残っているので、次稿以降の課題にしたい。
本書、平松論文、ポール・メイソン、そして次回に取り上げる北村洋基の著書、『情報資本主義』でも、共通して問題になるのは情報の価値とモノの価値がどのように融合するかだろう。
2. 価値主義は社会を構成できるか?資本主義は多くの国で社会を構成し、長い国では200年以上も続いている。その間に、物質的繁栄を人類にもたらした。それが可能だったのは人々の経済活動の目標がほぼ統一されていたからである。それによって社会の統一性が維持されていたのである。
社会を外側から囲む枠組みとしての国家も、内的な一時的混乱を鎮める様々な安定装置を完全ではないもののほぼほぼ機能した。だから、資本主義は不平等、不均衡を内包しながらも社会として存続してきた。