P.52に、モノから情報へ動くとどうなるかを示した図がある。原典は林雄二郎の作品だ。「モノに情報の価値が含まれている」のだが、まったく違うものが、いかに混合するのかは説明されていない。これは論点のひとつである。

著者の主張は発展する。モノとの融合から分離が生じ、「電子情報としてだけ存在するようになってしまったのが今日だ」(P.54)。

モノに付加された情報が、その比重を高めモノを凌駕し、やがて独立する。紙の本があって、電子本もつくられる。やがて電子本が主流になり、紙がなくなる。それが「ビジネス上の逆転現象」(P.55)だ。「情報は摩訶不思議な存在」の一文で第2章は終る。

第3章

イマニュエル・ウォーラースティンの資本主義の定義を採用して、おおまかな歴史を辿る。その確立はやはり産業革命で、生産の中心はモノであった。

しかし近年になると資本主義の非物質化が進み、それに伴って投資が減少し、そのために企業の内部留保が増大する(諸富徹 『資本主義の新しい形』、岩波書店、2020年)。

投資の減少→内部留保の増大は(600兆円)、必然の流れだが、問題は金融資産(r)の運用益が、予想される収益率(P)からリスク(R)を引いた値より大きい、つまり、「r > P-R」であることだ。そして、モノ作りへの投資の代わりに情報投資は増えている。

かつて生産財は資本家が占有したのであるが、情報が生産の中心になると「労働者自身がもっとも重要な生産財を手にする」、これが知識社会と呼ばれる現代の状況だ。

「かつての時代の生産財に替るもののほとんどが、資本家の手から労働者の手へと移った」(P.85)。

ここは評者のコメントをはさんでおこう。

著者の労働者像が問題になる。知識と技能を持ち、コンピュータを自在に使うAI時代の高給労働者だけをイメージしているようだ。著者の経歴からすると、そんな高給労働者がまず視野に入るのかもしれないが、最低賃金周辺で働いている人は推定1,100万人以上なのだ。