「殺人罪」における「未必の殺意の認定」との比較で考えてみよう。

故意というのは主観的要素であり、行為者自身が行為時にどのような認識であったのかという問題なので、「未必の殺意」は、行為者が「死んでも構わないと思ってやりました」と認める「自白」がある場合にのみ認められるという考え方があった。

しかし、未必の殺意による殺人というのは、大半が「衝動的殺人」である。口論の末、激高して、憤激のあまりその場にあった刃物で相手を突き刺してしまった、という場合、その間に、「死んでも構わないと思う」時間的な余裕がないのが大半である。そのような場合にも、「未必的殺意の自白」がないと殺人未遂罪で処罰できない、というのは、常識的にもおかしい。

そこで、「死んでも構わないと思った」という自白がなくても、

(a)「動機」(「その場での憤激の程度」も含む) (b) 手段(使用した凶器の殺傷能力) (c) 行為態様(身体の枢要部分めがけて行ったものか) (d) 犯行後の救命行動の有無

などを総合的に勘案して、行為者が死亡の結果が生じることが予想されることを認識しつつ行為に及んだと認められる場合には、「未必の故意」による殺人罪の立証が可能との考え方で殺人罪の起訴が行われる事例も多く、有罪判決も得られてきた。

それと同様に考えた場合、「死者の名誉棄損罪」の「未必の故意」についても、「虚偽であっても構わないと思って摘示しました」という「自白」がなくても、虚偽の事実と認識した上で敢えて摘示を行ったことが合理的に推認できる場合には、未必の故意があったことの立証は可能だと考えられる。

具体的には、

(ⅰ) 虚偽の事実を摘示する動機 (ⅱ) 摘示した事実が虚偽であることの明白性(その内容から、虚偽としか考えられないこと) (ⅲ) 摘示した事実が虚偽であったことが判明した後の行動

などの要素を総合的に勘案して、「虚偽の事実の摘示」についての「未必の故意」の存否を判断することになる。

立花氏の「虚偽の事実の摘示」についての死者の名誉毀損罪の成否の検討